フリートーク「赦し」を選ぶこと

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みなさまこんにちは、音と神託の紡ぎ手さゆらです。

赦し、許しがフォーカスされる出来事があったので書いてみたいと思います。

数年前、まったく理不尽過ぎる非難を受けて実質出入り禁止になった出来事がありました。ある人にとても怖いというか、容赦のない目つきとかけられた言葉、冷たい声音で非難され、「これは何を言っても無駄だ」と思ったのです。

ああ、この人と関わってはいけない、と心底ぞっとしてその日以来距離をおいて、知人には「私はもあそこには行かないから」と告げて、その後もたまに顔を合わせることがあっても挨拶もそこそこにとにかく関わらないを徹底していたのです。

そして数年たったある日、この話を知っている友人が私に教えてくれたのです。

「さゆらさん、とは名指しでは言わなかったけど、あのとき本当に悪いことをしたなって思ってるって話をしてきたんだよね。でも、さゆらさんのあの出来事だと思う」

それを聞いたとき、ほんの少しだけ心が柔らかくなったものの、これから先関わることもないからもうどうでもいい、と思っていました。

 

そして、それからまた2年くらい経った今月のこと。
相手の方から話しかけてきたのです。

それも、私を手ひどく攻撃してきた頃のことを。

え、どういう状況、これ。

と思いながら、じっと相手を見ると、その人は本当はもっと違うことを言いたげで、でも言いよどんで、

「さゆらさんにあのとき、お菓子を渡したくてもってきていたの。でも渡せなくて、それからもうずっと会う機会がなかったから…」

と話し始めました。
冷静に考えれば「なぜ今?」な会話なのですが、その方の目をまっすぐ見ていると、

その方がどれだけ当時の出来事を悔いていたのか、申し訳なく思っていたのか、ここ数年は会う機会はなかったなんてことはなく、挨拶を普通にしたり、ちょっと話をしたり、していたのだからいつだってこういう「機会」はあったはずで、でも言い出すことができなかったのがはっきりと感じられたのです。

 

正直、自分でも驚くくらい赦せる、と思いました。

今この時が赦しの機会なのだと頭ではなく感覚ではっきりと理解した、そんな出来事でした。

 

明確な謝罪の言葉があったわけではありませんが、これでいい、と思ったのです。

 

この日が来るまで、怒りがあり、悲しみがあり、無関心があり、まあその無関心があったからこそある意味フラットに接することができて、今ここにきて赦しの結末を迎えることができました。

この出来事でここには書ききれないくらいの気づきがありました。

赦し、許しって何?どういうこと??と思っている人が、この出来事を読んで何かしら感じてもらえるのでは、そうなったらいいな、という思いもこめて、書いてみました。

さゆら


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